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福岡県の山

石灰岩を行く・香春岳 三ノ岳 [ 504m ] ニノ岳 [ 468・2m ]

岩稜〜二ノ岳山頂 (15分) [ この区間の地図 ]

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岩稜コース入口は、低木の幹に、赤と黄色いテープが付けられているが目立たない。
登り口を知らなければ見落としてしまう。
この登り口を見て、岩稜コースを取ることとする。
一歩踏み込むと、いきなり苦労する。
小枝がリックに引っかかり、麦藁帽子は顔をふさぎ、登山者が少ないためか、くもの巣に顔をまともに突っ込んでしまう。
両手をあげ、顔を守りながら登って行く。
この林はすぐ抜け出し、右手斜面から突き出す岩を過ぎると、パッと日が差し左手に展望が得られる。
再度、三ノ岳に目をむけ、45度もあるような傾斜を覆い隠すような石灰岩を思い浮かべてしまう。
そして右手へカーブし、 行く手を阻むような岩 を乗り越え右手へ向きを変えていく。
右手に屏風のような岩を見て、左脇を草を掻き分けて行く。
踏み跡を足で感じながら10mも進み、50センチメートルほどの岩に立ち、右手へ登って行く。
5〜6mも登ると支尾根に登り着く。
そして、]左手石灰岩に触れ、左手へ草を掻き分けていく。
晩秋から春にかけては、道ははっきりするが今は致し方ない。
さらに、右手の岩に触れ枝をくぐって行く。
岩上を用心して行くと、正面に大きな岩が目に入る。
その手前から左手へ登って行くと展望が開ける。
左手東側に障子ヶ岳、左手前方に大坂山、振り返ると三ノ岳がパノラマのように視界全体に広がる。
岩上の足場に気をつけ、何度も見回して観る。
ここに来てよかったと、繰り返してしまう。

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さらに大パノラマを見回し、視界いっぱいに広がるダイナミックな光景に別れを告げるように、岩場を登って行く。
そして、潅木の中へ踏み込んでいく。
ここも、岩や踏み跡が見えないように草が多い。
しかし、なんとなく行く手は感じ取れる。
さらに、石灰岩を行く。
この斜面も、三ノ岳と変わることなく岩が多い。
帰路、夏場この下りに迷ってしまう。
目指す二ノ岳は目前にある。しかし、山頂は目前に見える峰ではなくその先にある。
背骨を思わすような、白い石灰岩を一列に並べて見せる峰は、ずいぶん沈んで見える。
そして林の中に踏み入れ、一旦下りすぐ岩の間を登り返していく。
登り着いた所は、10坪ほどの 草が繁茂する平地 になり一息入れたくなる。
道は尾根筋の右手西側に伸び、ゆっくりと息を整え、左手へほぼ平らな草道を行く。
草を切るように20mも歩いたころ、左手に岩稜の 岩コース の入口がある。

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ここには、入口左手の幹の根元に二重の色あせた赤いテープがあるだけで、知らない人は気付くことはない。
さて、どちらを行くか迷ってしまうが、岩コースは踏み跡は薄く、特に尾根筋は落ち葉が多く踏み跡ははっきりしない。
それより、今、歩いた平坦な道がどれだけ快適か、快適さになれた足は岩コースを取らず直進していく。
平坦な道は、相変わらず草が多い。
時期を間違えたのかも知れない。
しかし、歩くのに支障はなく、足はどんどん前を行く。
ほぼ平坦な道は、200mも進んだろうか、踏み跡は次第にはっきりしてくる。
道には、 白い石灰岩の石屑 が多くなる。
S字状にゆるやかに蛇行して行く。
しばらく行くと、石屑の道は広くなる。
そして、左手へ向きを変えゆるやかに登って行くと、落ち葉も多くなる。
広い道を100mか150mも行くと、左手へ鋭角にカーブし登って行く
さらに、7〜80mも行くと、正面に岩壁を見て右手へカーブし登って行く。
2〜30mも進んだころ、左手に赤いテープとわずかな踏み跡を見るが、これが 岩コースの出口 で、ここも知らなければ気は付かず通り過ぎてしまう。
出口の急坂には、わずかな踏み跡があるが、すぐ岩場になり岩場を通り下りだすころ、踏み跡は落ち葉に消されはっきりしなくなる。
さらに、直進して10数メートルも行くと道は狭くなる。
そして、10mも行くと右手へカーブし、天井が開けまた草道になる。

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すぐ林の中へ入っていく。
林の中に入ると、草は減り路面の土が見えてくる。
少し行くと、ゆるやかに下りだし、左手へカーブして行く。
道はすぐ平になり、心地よく歩を進めて行くと、正面2箇所に自然の中では不似合いな鉄製の錆びたパイプが詰まれている・
何のためのパイプか分からない。
そして、右手のパイプを踏み、右手に赤いテープを見て右手へ向きを変えて行く。
すぐ左手岩に赤い矢印を見る。
ここから左手へ、また岩道を行く。
ここも岩が多く、鯉が滝を登るように駆け登っている。
その隙間を縫うように通り抜けて行く。
なにげなく左手に目を向けると、岩の上にお地蔵さんか、石像が置かれ一瞬手を合わせたくなるが、
どうしたことか、頭部がない。
さらに直進し、錆びた鉄パイプを階段替わりに登ると山頂に着く。

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左手岩の間に山頂標が置かれている。
山頂標には「香春岳 486・2m S・H・C 別府」と書かれている。
ちなみに一ノ岳の標高は300mもない。
山頂標の横には、三角点の石柱も置かれている。
二ノ岳の廻りは断崖絶壁の様相をしていると言うが、自然林に囲まれその状況はうかがい知れない。
展望は、東から南側にかけ得られ、大坂山や悲運な一ノ岳の一部が得られるが、狭く足場も悪いためゆっくりできない。
さらに、一ノ岳工事現場の容赦ない 爆音のような重機の音も居心地のいいものではなく、後ろから押されるように山頂を後にする。


香春岳は、昔日、三峰から成る連山であった。
その代表的最も大きな山体を誇る一ノ岳は、三峰の中核として南側最前列に位置し、信仰の対象としてあがめられ、また、かけがえのない分厚い歴史も蓄えている。
かって、一ノ岳山腹には、歴史に残る名城香春城が築城され、限りないドラマが繰り広げられている。
香春町は、当時、大宰府官道や秋月街道など筑前に通じ、交通の要衝としての位置にあり、香春岳城は豊筑の軍事的重要な要城として知られている。
939年、藤原純友が西都大宰府攻撃の基地として城砦を築き、以降南北朝時代には肥後の菊池と少弐との熾烈な攻防戦や、1339年、豊後の大友の支配下にあった香春岳城が山口の大内に奪われ、さらに大友や毛利との長い争いにも巻き込まれ、幕府の裁定で講和するが、その条件に毛利支配の香春岳城は、大友にとって破却を前提とするほど、戦略的価値が高かったとされている。
1562年には、毛利支配の香春岳城を大友は戸別鑑連(後の立花道雪)らに攻めさせ、圧倒的大軍に二ノ岳・三ノ岳は落ち、最後の一の岳も大友の猛攻についに落城している
しかし、毛利にとって香春岳城は、戦略上決して手放せるものではなく、数ヵ月後に奪還している。
この戦で門司城・松山城(苅田町)・香春岳城を失った大友義鑑は、同年仏門に帰依し「大友宗麟」と号している。
さらに、世界遺産となった島根県の石見銀山を支配する尼子の討伐を決した毛利は、門司城だけを確保し、以外の城から手を引き、再度大友の手に移っている。
1567年、大蔵一族(秋月・高橋・田尻・砥上等)は大友に反抗して一斉蜂起、尼子を討った毛利は大軍を送り込み、大蔵一族を支援している。そして翌年、またもや香春岳城争奪戦が展開され、博多進出の拠点である立花城と共に毛利の占領下に置いてしまう。
争奪戦はこれでは終わらず、大友は、豊後に亡命していた大内輝弘に山口で大内家再興のため将軍家から認可状を取り付け、兵をつけ山口に送り出している。
これを知った毛利は九州派遣軍を急遽山口に引き上げさせ大内輝弘を討つが、この間九州の諸将は大友に寝返ってしまう。
大友が耳川の戦で島津に大敗すると、これを機に毛利に通じた小倉城主高橋鑑種の猛攻により、またもや香春岳城を奪還している。
鑑種はこの戦による過労で小倉城で病死するが、香春岳城は養子の元種に守らせ、支城の小倉城は城代をおいて支配したという。
そして、いよいよ豊臣秀吉の九州平定が始まると、黒田官兵衛・小早川隆景らは、二ノ岳と三ノ岳の間の広い鞍部に、付城を築き1586年12月11日、開戦から20日後、ついに落城することとなる。
香春岳城は、戦術上余りある価値であるゆえ、常に戦乱の渦の中に巻き込まれるという、交通の要衝としての哀れな宿命を背負っていたのであった。
このような悲運な香春岳城は、徳川の時代に入り1615年一国一城の令により破却され、筑豊の名城香春岳城は歴史の舞台から消えていくのである。
香春岳城の主城は鬼ヶ城や鬼岳城とも呼ばれ、一ノ岳北東斜面の中腹にある須佐神社の上あたりにあったという、
この一ノ岳は、山頂部を大きく削られ、歴史を忍ばせてくれる山としての体を失い、悲運にも歴史的、また三所権現が祀られた信仰のシンボル的山自体も消えようとしている。
そして、平成の今も、工事現場の爆音は、哀れな一ノ岳を容赦なく爆撃しているかのようにも聞こえてならない。

さて、一息ついたら下山し、鉱山専用道路出会いまで往路を戻っていく。

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