歴史の香りが漂う・障子ヶ岳 [ 427.3m ]
登山口〜道標 (15分) [ この区間の地図 ]
障子ヶ岳山頂には、1336年に築城されたという障子ヶ岳城の跡が、今なおはっきりと形をとどめ、いざ、本丸への登城となる。
城を巡っては、山口の大内や毛利と豊後の大友が、戦略的価値から幾度となく争奪戦が繰り返され、城主はその度に代わり、1586年豊臣秀吉の九州平定に伴い、250年の歴史を閉じることとなる。
山頂付近にはその歴史の遺構が各所に見られ、遥か遠い戦国の世に気持ちは飛んでいく。
10台ほど止められそうなに駐車場に車を止め、さらに直進し未舗装の砂利道を蛇行して行く。
200mも歩くと、右手に東屋が見えてくる。
辺りには桜が植えられ、文字通り桜公園に着く。
すぐ先には、味見峠と障子ヶ岳城跡について書かれた説明板が立てられ、一読すればいい。
味見峠と障子ヶ岳城跡
味見峠(標高247m)は、養老4年(720年)採銅所長光にある清祠殿で鋳造した銅の神鏡を古宮八幡宮から宇佐八幡宮に奉納する際、御神 の行列があったことで有名であり、英彦山山伏の峰入りコースの一部でもあった。
昭和56年(1981年)中腹に苅田〜採銅所線として味見トンネルが開通し、今日では人通りも途絶えているが、かつては経済的、人的交流(婚姻など生活交流)の峠道であった。
味見峠から登られる障子ヶ岳城跡
障子ヶ岳(427・3m)の山頂にあった障子ヶ岳城は、戦略上の要衝の地であるため、この城をめぐって幾度となく攻防戦が繰り返された。
この城跡は、牙城跡(きばじょうあと)とも呼ばれ中世の山城の姿を極めてよく残している。
建武2年(1336年)足利尊氏の命によって、足利駿河守統氏の築城と言われ、その後度重なる戦乱で城主は変わり、天正14年(1586年)豊臣秀吉の九州平定に伴い、黒田孝高(よしたか)の軍に落とされた。
さらに直進すると、道は二手に分かれ右手に道標が立てられ「障子ヶ岳登り口 山頂まで1・4km」と案内されている。
これを右手に取り登って行く。
道には小石が多く傾斜は小さくない。
7〜80mも登って行くと右手へカーブ、さらに大きな傾斜を登り左手へカーブして行く。
傾斜は大きく、息は荒れ額に汗が垂れ落ちてくる。
少し登ると足元の小石はなくなり、歩きやすくなる。
しかし傾斜はゆるんでくれない。
辛抱して登ると傾斜はなくなり、足に正気が戻ってくるが、10数メートルも行くと、また登りはじめ、左手へカーブして行く。
少し登ると、傾斜はまたゆるんでくれる。
そして、左手に鉄塔を見るとすぐ右手へカーブして登って行く。
左手にはロープが垂らされ、ロープは帰路の下りに役に立つ。
4〜50mも登ると登りきり、左手へ向きを変えゆるやかな傾斜を少し下ると登りだす。
道は急に狭くなり、登山道らしくなる。
右手には「タバコ投捨禁止 文化財を大切に 勝山教育委員会」と書かれた案内板が幹に掛けられている。
さらに、10mもゆるやかに登るとゆるやかに下りだす。
右手樹間には、早くも目指す
障子ヶ岳の山頂部
が見え隠れする。
少し下ると、道はほぼ平らになる。
そして、左手へ向きを変えゆるやかに登って行く。
右手には「障子ヶ岳登山道」と案内した
立て札
が立てられ、山頂を案内してくれる。
左手にも立て札が立てられ「勝山宮原方面」と書かれ、左手へ分岐し下っている。
一息つき、しっかりと踏み固められた踏み跡を登って行く。
10mも登ると、正面にも道標が立てられ「障子ヶ岳登り口 山頂まで1・4km」と書かれているように見えるが、しかし、4の数字は消されはっきりしない。
登山口の道標も1・4kmと書かれており、間違いを消しているのかも知れない。
道は、左手にも分岐しているが、踏み跡は薄い。
道標に従い、すぐ右手へカーブしゆるやかに登って行く。