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福岡県の山

市街地に裾野を広げる深い森・油山 [ 597m ]

登山口 → 妙見岩(所要時間:約50分)

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登山口は、市民の森から数本のコースが伸びているが、油山観音のすぐ脇の登山口から入山外周コースを取る。
駐車場は5〜60m先の道沿いの空地に数台駐車できる。
市民の森有料駐車場に駐車すれば、帰路車道歩きが省かれる。
登山口には鎮西上人について書かれた、大きな説明板や「油山山頂」と書かれた 立て札 が立てられている。
入山の一歩は、モルタル造りの階段から始まる。
階段を20数段登り、さらにブロックや擬木で造られた階段を登っていく。
4〜5分も登ると、突然正面に 大きな石碑 が現れる。
石碑には「鎮西上人霊蹟」と刻まれている。
ここは、鎮西上人こと聖光が学問所を立てたところだと言われている。
碑は二重の鎖で囲まれ、山頂は碑の手前から、鎖を廻り込むように右の方へ進む。

浄土宗第二鎮西上人霊蹟
鎮西上人は筑前の国香月庄(北九州市)の出身で寿永2年(1183年)22才のとき比叡山に登り8年間修学の後帰郷された。 その頃この油山の地は360からの僧坊があり、九州第一の学問の道場であった。30才の若さで油山学頭になられると、弟子たちが争ってその門に集まったといわれている。 建久8年(1197年)京都に上り浄土宗を開かれた法然上人に出会われ、8年間修行をし、正統を受け継ぎ、浄土宗第二祖として、元久元年(1204年)43歳の秋、九州に帰り筑後の国(久留米市)の浄土宗大本山善導寺(国指定重要文化財)をあじめ、九州、四国中国の各地に48ヶ寺を建て、大いに念仏の法を弘め、嘉禎4年(1238年)2月現在の大本山善導寺の地で入滅された。 時に77歳。

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すぐ薄暗いスギ林の中へ入っていく。 少し行くと道は左手へカーブし、その左手角に「長島 寺尾両烈士 自刃の碑」と書かれた 案内板 を見て登っていく。

ここは├字形の三叉路となっており、右手へ分岐している。
ここを直進するように 擬木 やブロックの階段を登っていくと、また├字形の三叉路となる。
ここも右手の方へ伸びており、山頂は直進し左手へカーブし登って行く。

スギ林の道は日差しが遮断され薄暗い。
2〜3分もいくと正面に案内板が立てられている。
ここも├字形の三叉路となっており、山頂は右折する。

その前に直進して下っていくと、これまた驚くほど大きな碑が建てられている。
大きな碑 の右手には「昭和20年8月15日、大東亜戦争終戦の大詔が下るや、九州軍需管理部に所属する海軍技術中佐 長尾秀雄、海軍少尉 寺尾博之は、8月20日未明この地で割腹自刃した」等々刻まれている。

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山頂は三叉路へ戻り左折する。
数メートルで道は Y字形に分れ て、右折し登って行く。
左手へ下れば油谷へ行く。
辺りはヒノキ林が広がり、好天に恵まれていても薄暗い。
右手足元には、道に沿って雨水を流す ミゾ が付けられている。
少し登るとミゾが道を横切り、このミゾを渡り右手へカーブし登っていく。
道は急坂ではないが、ゆるやかでもない。道には腐れかかった木段が付けられ、ミゾ道を2〜3分、コケむした岩を避けながら登っていく。
すぐ道を遮断するように岩が重なりあい、踏み跡に沿って、その左手を登っていく。
道は ミゾ のように掘り込まれ、深いミゾ道を左手へカーブし登って行く。
辺りにはヒノキ林が広がっているが、その間にスギも点在する。

1分も登ると、 自然石 を積み上げた段差の大きい石段になる。
その階段はゆるやかに右手へカーブし、大きな傾斜を登っていく。
一息ついて登りきると、傾斜はゆるみ岩はなくなり、歩きやすくなる。
シダの多い道を1分足らず行くと、 ├字形 の三叉路になる。
山頂は直進して行くが、ここを右折し14〜5メートル登っていく。
正面には大きな岩があり、その先に 案内板 が立てられている。
"ここは浩然台といわれ、市街地が一望され、かつて登山者の絶好の休息場となっていた"と書かれている。
だが現在、ヒノキが植林され展望を楽しむことはできない。
背振山系にある蛤岳は、蛤岩から唯一展望を楽しんでいたが、スギが成長し、展望を失っていた。
しかし近年、スギ林が伐採され、昔日のように展望が得られ、登山者を楽しませている。

浩然台(こうぜんだい)
福岡市の市街地が眼下に一望され、油山登山の際、休息するのに絶好の岩場でありましたが、近年樹木が生長し、眺望ができなくなりました。昔は松が生えていて観月の宴も開かれました。

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一息つき、三叉路に戻り右手へカーブしすぐ木段を登り、左手へカーブしていく。
木段は、木の根も含めて19段ほど数える。 三叉路から1〜2分も行くとまた├字形の 三叉路 になる。
ここを右手へカーブし登っていく。 直進することもできるが、道は荒れ、踏み込まないほうがいい。
矢印もそう指示している。
ここを右手に曲がってり少し行くと1メートルほどの段差になり、これを登り、 さらに左手へカーブしていく。
道は少し傾斜を増し根っこも道に露出してくる。
埋もれかかった 木段を10段 ほど登っていくと、ヒノキの根っこが、道の崩壊を保護するように、階段状に這い出し、これに助けられながら登っていく。

道は雨水に表土をえぐり取られ、 縦横に這う根 が痛ましい。目を上げヒノキ林の間に、見え隠れする稜線を見て2〜3分も登り、さらにヒノキの根に助けられ急坂を登っていく。
両脇に生える シダ を見てさらに2分ほど急坂を登ると、 ちょっとした空地 になり、一服したいところでもある。
辺りはヒノキ林から自然林に変わり、流れる空気も清々しく感じる。
ここは三叉路となっており、左手へ下っているが、踏み跡は薄く荒れている。
油山にはヒノキが多く植林されているが、ヒノキはその昔発火用に使われ、木をすりあわせ火を出していたとこらから、火の木が「ヒノキ」になったと聞く。
ヒノキは高級材として、主に建築用材に使われている。
特に神社・仏閣に使用される天然のヒノキは極端に少なくなり、江戸時代には留木として伐採が禁止され、禁伐制度により枝一本・腕一本、木一本・首一本の重罰が科せられたという。
明治になると、有名な木曽ヒノキは、重要な材であるが故、皇室の御料材として皇室林野局が管理、しかし、戦後になって国有林に編入され、現在林野庁の管理になっている。
ヒノキは樹齢800年を越えるほど成長するが、スギのように大木・老木にはならないという。
ただ東京都多摩に例外的に樹齢1200年の大きなヒノキがあると言う。
一息つき、さらに急坂を登って行く。

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三叉路を過ぎ、自然林に覆われた道を行くと、すぐ左手に異常に幹が多い木が目に付く。
そばに寄り、丁寧に数えてみると、大小あわせて 17本の幹 を数える。
この木を見て右手へカーブし、ミゾのような道を登っていく。
ミゾ道の左手には、しっかりと踏み跡が付けられ、そこが歩きやすい。
すぐ自然林の歩きやすい道に変わる。
左手に城南消防署の「観=B」のパネルを見て、ゆるやかな尾根道を登ると、すぐ左手にさらに多くの 幹を持った木 に目が引つけられる。 これも興味深く数えてみると、26本の幹が一株から立ち上がっている。
これは、根元から切られ、そこに芽が出て育ったものではあろうが、よくもこれだけ育ったものだで自然の生命力に驚きを隠せない 。

木の根の多い、ほぼ平坦な尾根道をゆるやかに登っていく。
この辺りは多くの幹を持った木が多い。
なぜ切られたのか、もし切られなかったら、今はどのような大木に育っているのか、そんな想いが脳裏に浮かんでくる。
ほぼ平らな尾根道の真ん中に、2本の幹を持った木を避けていく。
道沿いにはシダが多くなり、右手へカーブすると次第に傾斜を増してくる。
さらに廻り込むように左手へカーブしていく。
道は、急坂ではないが決してゆるやかではない。
少し行くと、人の背丈ほどもある 土壁 のミゾ道になる。
ミゾ道には、土に埋もれた木段が付けられ20数段を数え登っていく。
ミゾ道を登りきると、道は歩きやすくなり、正面に堂々と立つ 大きな木 の間を通り抜けていく。
すぐ傾斜を増し腐れかかった木段を9段ほど登っていくと、右手樹間には福岡市街地を見ることができる。
一息ついては左手へカーブし、7段ほど登りさらに左手へ回り込み、市街地を背に登っていく。
この辺りはなぜか松の木が多く、道には厚くなるほど松の葉が積もっている。
急坂を登りきると、正面に大きな岩が見えてくる。

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