歴史を刻む巨石の山・二丈岳 [ 711.4m ]
登山口〜山頂(25分)
登山口には、20台以上駐車できる広い駐車場が用意され、木の香ランドから別ルートで登って来た道もこの駐車場で一緒になる。
駐車場からは、近年姿を変えた二丈岳の山頂が植林地越に覗える。
山頂への道は、擬木の階段から始まる。
20数段登り、さらに7〜8段木段を登っていく。
登りきると、ほぼ平らな道を右手へカーブし大きな傾斜を登っていく。右手は自然林、左手はヒノキが植林されている。
急坂を10mも登ると傾斜はなくなりヒノキの植林地を行く。
道はしっかり踏み固められ、はずすようなことはない。
10mも平坦な道を行くと、ゆるやかに登りだす。
すく傾斜は収まり、10mも平らな道を行くとまたゆるやかに登りだす。
小さなアップダウンを繰り返し、登山口から5〜6分も行くと、
正面左手に道標
が立てられ「59 二丈岳登山道」と案内されている。
道標の右手を過ぎると、傾斜を増してくる。
しかし、息が荒れるような傾斜ではない。
道には、ヒノキが階段状に根を張り出し、土留めに役を果たしている。
左手には、小さな幹に黄色と赤のビニールテープが巻かれ山頂を案内している。
根っこの道を登ると傾斜はゆるみ、また歩きやすい道になる。
少し行くと、左手ヒノキはなくなり自然林の道を行く。
自然林の中には露岩が多くなる。
露岩の道は少しばかり傾斜を増す。
長く続けば足に応えてくる。
さらに、木の根っ子の段差を登り、
右手に松の木
を見ると傾斜はゆるみ、露岩はなくなり歩きやすい快適な道になる。
しかし、1分も行くとまた登りだす。
右手の幹には赤いテープが巻かれ目印になる。
さらにヒノキ林を行く。
道はまた傾斜を増してくる。
右手自然林の中には時折松の木を見かける。道沿いに平べったい岩を見て岩の段差を登り、二つの岩の間を抜けると
傾斜は幾分ゆるんでくる
。
この辺りは露岩が多いが、歩きやすい。
ゆるやかな傾斜を行くと、右手にナイフを入れたように
上下に割れた岩
が目につく。
傾斜は小さくほとんど足には感じない。
深江から登る道は急登もあり息も荒れるが、このコースに急登はない。さらに距離もなく、観光を兼ねてもよし浮岳・十坊山・可也山等他山とセットで登ってもいい。
ほぼ平坦な道を少し行くと、ヒノキ林は遠ざかり自然林に変わる。足元に露岩を見ると、数メートル下りすぐ登り返していよいよ山頂へ最後の登りにつく。
傾斜は増し、階段状に横切る木の根に助けられ登って行く。
少しばかり登ると、
右手にロープ
が張られてくる。
しかし、ロープの助けを借りるほどではない。
左手樹間には、真っ青な玄海の海原に目を引かれる。
足元にはさらに露岩が多くなる。
辺りはなんとなく植生が変化し、山頂が近いことがうかがえる。
露岩を避けながら左右に向きを変え登って行く。さらに左手へ向きを変え、階段状に並べられた自然石を登ると山頂に着く。
駐車場から25分足らずで登りきる。
山頂に着くと、左手に白い木柱が立てられ「二條城址」と書かれている。
正面には、巨石群が山頂を独占し他山にない光景を見せてくれる。
しかし驚いてしまった。
巨石群が丸見えになっている。数年前までは自然林に包まれた巨石に、寺社で感じる独特の尊厳さや畏敬の念を感じ崇めたものであったが、今は丸裸にある。
巨石と共生するように生えていた自然林は近年が伐採され、山頂で得られる展望は素晴らしいの一語に尽きるが、巨石が寂しそうにも見える。
自然に手を加えるのは最小限がいい。
山頂の岩は「国見岩」と呼ばれる。
北側眼下には二丈町が、さらに果てしなく広がる真っ青な海が実に美しい。
糸島富士で知られる可也山も美しい。
左手には、兄弟山のように女岳と浮岳が対になって、美しいシルエットを見せている。
東側へ少し行くと隠れるように祠が安置されている。さらに進むと腰を降ろしたい空地があり、寝転んで時を過ごすのもいい。
空地の南側には昔日の石塁が残っている。西側にも石塁を見るが、日にコケははがれ近年積み上げたように真新しく見える。
この石塁こそ堅城とうたわれた二丈岳城跡である。
二丈岳城は、鎌倉時代糸島松浦党の中村氏の築城だといわれている。
1432年、筑前支配をもくろむ中国地方の雄、大内盛見は大友持直が守る立花城を攻め、不意を疲れた持直は城を捨て、草野氏を頼って二丈岳城に籠城した。
攻め手は、高祖山城主原田種泰を含め1万、守り手は大宰府の少弐氏の援軍を含め1万、総勢2万の大軍が死闘を繰り返したという。
二丈岳北側の淀川には、死体が重なり血糊で流れを止めたとも伝えられている。
激戦の中、大内軍は志摩の兵に背後を突かれて大敗、66歳の老齢大内盛見は志摩の将に討たれ絶命したという。
麓には戦死者を合祀して弔ったとされる千人塚があり、コケむした墓石が今も数基残っている。
戦国時代になると、二丈岳城は原田氏の領有となり、原田氏一族の深江良治が城主になり、豊臣秀吉が九州平定に来ると、深江良治は二丈城の守備を肥前の草野鎮永に任せ、原田信種が守る高祖山城の守りにつくが、秀吉軍の大軍に戦うことなく城を開場、草野鎮永も二丈城を明け渡し、後に二丈城は廃城、破却され、歴史を閉じることとなる。
10数メートル、長さは東西150mほどの山頂部には本丸の他、二の丸・三の丸が備えられていたという。
今見る巨岩も、当時とまったく変わりないことを願うが、誰よりも深く歴史を刻んできた丸裸の巨岩が痛ましく見えてしかたがない。