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福岡県の山

歴史の香りが漂う・障子ヶ岳 [ 427.3m ]

分岐〜山頂 (15分) [ この区間の地図 ]

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下りきると、右手に道標が立てられ、行く手を「障子ヶ岳山頂」後方を「味見登り口」そして左手へ「上野登り口」と案内している。
白い花をつけたスイセンに目を向けながら、さらに直進して登って行く。
ゆるやかな傾斜は、徐々に傾斜を増してくる。
左手には、小学生が書いた案内板が立てられ「ゴミは必ず持ちかえろう」と書かれている。
傾斜は、さらに増してくる。
大きな傾斜を7〜80mも登ったころ、左手へカーブすると、右手に「もうすぐ頂上」と書かれた 立て札 が立てられている。
傾斜は大きく枯葉で滑りやすい。
少し登ると右手にロープが張られている。
ロープは、登りより下りが役に立つ。
さらに、4〜50mも登ると正面に 「自然の草花を大切に」 と書かれている。
ここから左手へカーブすると正面が明るくなり、太陽に反射した眩しいようなグリーンの斜面が見えてくる。
その斜面手前から右手へゆるやかに登って行く。
10数メートル進み左手へカーブし登って行くと、右手に擬木の柱が立てられ「空濠跡」と書かれている。
すぐ先から右手へ山頂への道が伸び、馬場跡の広い草地が広がっている。
その先に山頂が特異な姿を見せている。
山頂へ踏み出す前に、直進するように伸びる道を10mも辿り、左手山頂反対側へ急斜面を登って行く。

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10mも登り左手へ向きを変えると、また広い草地が広がっている。
正面、奥の方には擬木が立てられ「北の丸跡」と案内している。
ここからの展望は四方に広がり、さえぎるものはまったくない。
山頂南側へ目を向けると、要塞のような山頂が一望できる。
戦国の世、ここにどんな本丸があったのか、現存する美しいお城とは考えにくいが、勝手にイメージして戦国人になりかけてしまう。
北の方へ目を移すと、辿ってきた自然林の尾根筋が眼下に一望できる。
尾根筋の左右の斜面には人工林が広がっているが、幸い、尾根筋だけを残している。
時の過ぎるのを忘れさせる光景に立ち去り難いが、鞍部へ戻り馬場跡広場へ登って行く。
馬場跡は、長さ6〜70mはあろうか、ゆるやかに登って行くと、途中右手にベンチと擬柱が立てられ 「馬場跡」 と書かれている。
さらに直進すると、正面に「障子ヶ岳城跡」の説明板が立てられ、一読すればいい。
そして、説明板の左手から右手へ、狭い大きな傾斜を登って行く。
振り返ると、長い馬場跡の先にコブを削り取ったような独立した北の丸跡がよく見える。
さらに本丸跡を目指し登って行く。
登りきると、右手に 「二の丸跡」 の擬柱が立てられている。
さらに直進し登って行く。
正面には、最後の砦となる本丸跡が目前にある。
これを登ると、障子ヶ岳山頂に着く。
山頂は円形をしており、東西21m、南北30mほどあると言われている。
廻りは、高さ1・5mほどの土塁で守られ、ここに豊前の名城と言われた城があったという。

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山頂右手縁には、擬柱に「本丸跡 標高427M」と書かれている。
そばには山頂標も立てられ、白と黄色のスイセンに囲まれている。
正面奥の土塁上には、国土地理院の石柱も立てられている。
山頂も展望はよく、四方見渡せる。
正面北側には、鉄塔が並び立つ大坂山が、右手には三ノ岳・二ノ岳、そして頂上が削られた一ノ岳が見渡せる。
右手北東の方角に横たわる稜線上には、福智山の頂がわずかに見える。

障子ヶ岳は、1336年足利尊氏一族足利統氏(むねうじ)が、豊前の守りとして築城し居城したという。しかし、1368年千葉上総介光胤(みつたね)が統氏を打ち千葉氏に渡ったのだと言う。
また、1399年元旦城主千葉高胤(たかたね)は、慶賀の祝いの宴を開いていたとき、大内盛身の大軍に二手より攻められ、不意を行かれ落城したのだという。その後、大内氏の城となったが、筑前に落ち延びていた千葉氏の嫡男千菊丸が城を奪還、千葉氏を再興したが長くは続かず滅びてしまった。

1586年、豊臣秀吉の九州平定の折、秀吉の宿舎になったともいう。
後に、小早川隆景の持城になったが、その後一国一城の令により、惜しくも廃城され破却されてしまった。
秋月は、島津に大敗した豊後の大友の衰退に乗じて領地を広げ、豊前・筑前を含め12郡に及んだという。これまで毛利に組していた秋月ではあったが、肥前の龍蔵寺死後島津につき、大友の勝尾城・岩屋城・立花城等北伐を進言し、毛利と対峙することになる。
一方、秀吉先遣軍は門司城を拠点に、香春城の支城である小倉城を1586年10月に落とし、次いで11月15日障子ヶ岳城は陥落、12月には高橋元種が守る香春城もついに落城している。
さて、体力に余力があれば、本城があった、一ノ岳を除き二ノ岳・三ノ岳を目指せばいい。または、牛斬山も悪くはない。

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