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福岡県の山

歴史と修験の山・宝満山 [ 829m ]

中宮跡 → 山頂(所要時間:約30分)

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芭蕉句から1分も登れば中宮跡に着く。
中程には大きな宝満山碑が建てられている。
左手には大きな案内板が太宰府市の手で立てられ、中宮について説明されている。
かつて講堂は、四間半四方で屋根はクヌギで葺かれており、講堂前の広場では、護摩の火が焚かれ加持祈祷が行なわれていたという。
右手の方には、こんもりと盛り上がった所があるが、ここに鐘楼があったとされている。
鐘楼跡には、大きな岩に今も柱穴を見ることができる。
宝満山はその昔、シャクナゲが群生していたとされるが、今は少なく元のシャクナゲの群生地に戻すため、鐘楼跡には登山者に善意を訴える立札が立てられている。
その昔、福岡市に横たわる油山の海神社の神が、この山のシャクナゲを持って帰ろうとした時、宝満山の神が怒ってそのシャクナゲを取り上げてしまったと言う。
そこで油山の神も怒って、意地でも油山にはシャクナゲの花は咲かせない、と言って帰ってしまったという。
そこで油山には、今でもシャクナゲが育たないと伝えられている。
中宮跡からは、行者道と呼ばれる道も伸びている。
この道は愛宕山を経由し登山口へ通している。
先の方にはベンチも用意されており、一息入れると良い。
この中宮跡には、桜の木も植えられ、花時は身も心も癒され、石段の疲れを忘れる。
道は中宮跡を左手に、平坦な道を土の感触を感じながら直進して行く。
左手道沿いには、 案内板 が立てられ 「ここは九州自然歩道です。マナーを守って利用しましょう。」と書かれている。
講堂は、この案内板の奥のほうに建てられていたと聞く。

中宮跡
宝満山に修験道が盛んだったころ、この場所は中宮といわれ、この山の本地十一面観音をまつる大講堂を中心に、神楽堂、鐘楼、法華塔、九重塔、黒田光之寄進の鳥居、毘沙門などの小祠が立ち並び、 山伏の修法の中心であったが、明治初期の廃仏毀釈によりとりこわされ茅野となった。
<太宰府>

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中宮跡を出ると、すぐ数段の石段を下る。
下りの石段はここに始めて現れる。
すぐ三叉路となり、右手には 道標 が立てられ、直進の道は「三郡山頂:2.9km 宝満山:0.4km」 そして右手は「キャンプ場・座主跡:0.6km」と案内されている。
その奥には「美しい自然の元のシャクナゲ群生地に戻すため、皆様の善意でシャクナゲ植樹を、昭和52年より続けています。」と書かれている。
左手には、少しばかりの空地があり、左手に振り向くと大きな岩が目に付く。 よく見ると梵字が刻まれている。

正面左手には、古い石仏が安置されている。三叉路を直進して男道と呼ばれる道を取る。右手は女道とも呼ばれる。
石段を数段登ると道は左手にも分岐し、そこにも案内板が立てられ 「羅漢巡り」 と案内されている。
さらに「夫婦稲荷大神」とも案内されている。

羅漢めぐりを経て山頂へ達するこのコースは、巨岩に沿って道は伸びていく。
巨岩には、天神の七窟、地神の五窟、金剛兵衛が修行をしたという金剛兵衛窟、伝教大師最澄が入唐の安全を祈願したという伝教大師窟、宝塔窟、天狗の顔をした天狗岩などの巨岩があり、変化に富んだコースでもある。

さらに「遠望の岩」に立てば素晴らしい展望が得られる。
このほか、五百羅漢・千体地蔵が祀られていたと言われるが、廃仏涅釈で、谷底へ落とされたり、首を取られた地蔵さんが痛ましく感じられる。
また、新緑や紅葉がすばらしい。

このコースは帰路に計画してもいい。
山頂へは、ここを直進していく。すぐ 岩場 になる。
大きな岩の左手には、足場が彫りこまれ左手の大きな岩壁の足元から伸びた木には「ネジキ」と名札が付けられている。
その岩壁を左手へ回り込むように岩道を行く。

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すぐ左手にコケむした岩を見て、10段ほど石段を登っていく。
数メートル行くと、道は左手へカーブするとまた石段になる。
石段は、二つの岩の間に付けられている。
さらに 三つの岩の間に、程よい石段 が登りと下りに使えそうに2本作られ、交通規則を守って右手を登っていく。
さらに石段は続く。

石段を登りきると、右から左手へ傾斜した 平らな岩 の上を行く。
右手に展望が開け、樹間に香園か本導寺辺りの田園風景を、眼下に見ることができる。
ここで一息ついてもいい。
右手には数本の幹を持つ木に「こはうちわかえで かえで科」と書かれた名札が掛けられている。
山頂はさらに直進して行く。 道は宝満山では珍しく、踏み心地のいい 平坦な土道 に変わり、 足には土の感触が優しく伝わってくる。 足の疲れも次第に抜けてくる。 時折、平坦な道があれば、実に気持ちいい。

左手には「宝満山の野鳥」と書かれた説明板が立てられている。
ここをゆるやかに下って行くと傾斜はゆるんでくる。
少しばかり石段を登ればまた平坦な道になる。
右手は深い谷、その路肩には大きな木が枝を広げ、薄暗くなるほど枝を広げている。
左手にはコケむした岩が多い。

宝満山の野鳥
宝満山の周辺には、野鳥の好む実のなる木や昆虫類も豊富で、種類・量とも多くの野鳥が生育しています。 四季を通じて、ウグイス・ホオジロ・エナガ・ヒヨドリ・コゲラ・カケス・カワガラスなどが見られ、夏は、ホトトギス・オオルリ・サシバなど、 冬はシヤマホオジロ・ツグミ・アオジなども見られます。
<環境庁 福岡県>

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さらに平坦な土道を少し行くと、道は右手にカーブしその右手に 道標 が立てられ、「宝満山頂:0.3km」そして後ろは「百段ガンギ:0.5km 中宮跡:0.3km」 と案内されている。

正面には「八合目」と書かれた 石柱 が立てられ、 その左手には、直進するように石段がある。
落ち葉や、コケに埋まったようなこの石段を登り、岩壁の鎖を手に登っていけば、梵字が刻まれた岩に目が行くが、何と書いてあるのか読めないのが何とも情けない。
その左手には九州自然歩道の標柱も立てられている。
ここで一息つき、霊気に身を寄せ石段の疲れをとればいい。

少し行くと、踏み跡が付ついた 大きな岩 この岩を下るとすぐ石段になる。
の上を行く。
石段には、右手からコケむした木が倒れ、 これをくぐり、さらに左手へカーブし右手に 蓋をかぶせたような岩 を見て、さらに石段を登っていく。

少し行くと、右手にシャクナゲの群生地を広げるための案内板が立てられている。
正面には「益影の井」題した説明板が立てられている。
すぐ先には「益影の井 20m」と書かれた 案内板 も立てられている。
益影の井は、右手へ踏み跡を辿っていく。
途中、狭い岩場がありロープを手に用心して下る。 益影の井に影を映すと老顔も若くなるとのことで、若い人以外は試してみればいい。
途中、狭い岩場があり ロープ を手に用心して下る。
益影の井 は、大きな岩の基部の割れ目にあり、林に隠れて薄暗い。

これが幸いにも若く見えるのかもしれない。
ここには、ヒシャクも用意され渇いた喉を潤せばいい。
しかし、ヒシャクを持つのは水面に写した後がいい。
さて、水面に映し出された我が顔に満足したら、分岐へ引き返す。

益影の井
宝満山中には、五所秘水といって、霊水が湧き出る泉があり、その中で一番神聖な泉が益影の井です。 筑前国族風土記に「人がこの水に影を写すと、老顔も<益々>若く少壮の如く写るので益影の井と名付けられた」とまた 「応神天皇が粕屋郡宇美町で御誕生の折に、この水をわかして産湯にされた」などその外、雨乞いの祈祷水など昔より信仰と伝説に富んだ霊験あらたな若返りの泉であります。

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すぐ石段を登っていく。
段差が大きい石段を左手へカーブし登って行くと、1列に積まれた石段は、 二つの岩 の間を伸び登りきると、 木の根 が網の目のように這い出してくる。

さらに石段を登ると、右手に木柱が立てられ 「九合目」 と案内されている。
すぐ傾斜が大きい 加工石の石段 を登りきると、すぐ左手に分岐している。
そこには、古い木柱が立てられ「竈門岩」と書かれ、さらに「竈門岩 二十米」とも書かれている。
山頂はもうすぐ、その前にチョット寄り道し左手へ竈門岩まで足を伸ばしてみる。
落ち葉の多い土道をゆるやかに登っていく。

1分も行くと、正面に城門のような二つの大きな岩が現れる。
その間を抜けると、右手に見上げるような 巨岩 が現れ、1個の岩を載せている。
巨岩の壁面には、たくさんの文字が刻まれてはいるがこれも読めない。

その巨岩の右手には、 「仙竈」 と掘り込まれた岩が目に付く。
霊山・修験の山としての宝満山の証のように思える。
ここで一息ついたら分岐へ戻る。
5〜6メートルも行くと、加工石の石段を登り正面に大きな倒木を目にする。
ここを右手に岩の間を抜けていく。

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左手の岩には、ナイフで切り裂いたように横線が入っている。
すぐ急な石段を登り、さらに岩場を登っていく。
岩場を登りきった所で、左手の岩を見ると今度はナイフを縦に入れたような割れ目ができている。
さらに 岩道 を登っていく。
とにかく、宝満山は岩が多い。

登りきると、右手に木柱が立てられ「袖すり岩」と書かれている。
すぐ岩の間の 狭い石段 を登っていく。
なるほど、両脇の岩に袖が触れるほど狭い。
石段を登り、さらに岩場を登ると、正面に文字が書かれた岩が目に付くが、文字ははっきりしない。
すぐ平坦な歩きやすい柔らかな土道になる。
右手には、 白い説明板 が立てられ「馬蹄石」について説明書きされている。
岩の窪みは、龍駕のひづめの跡だという。

馬蹄石
玉姫降神(ぎょっきこうしん)すれば即ち山谷鳴りて震動す。 心蓮座に登れば即ち天華飛びて繽粉(ひんぷん)たり天武天皇白鳳二年(673)二月十日の辰の刻に法相宗の僧で、この山の開山である心蓮上人が宝満山に篭り樒(しきみ)閼伽(あか)の水を持って修行していたところ俄かに山谷が震動し何ともいえない香りが漂い、忽然と貴婦人が現れ、「我は玉依姫なり、現国を守り民を鎮護するためこの山中に居ること年久し」と告げたとかと思うとたちまち雲霧がおこり貴婦人は姿を変じて金剛神となり、九頭の龍馬に駕して飛行した。 その時の龍駕の蹄の跡が、大岩の上のくぼみであると言い伝えている。

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平坦な道は、すぐ岩場になる。
岩場を右手へ、さらに左手へ用心して登っていく。
修験の山にふさわしい 岩場 が続く。
なかなか山頂は遠い。

馬蹄石の説明板から3〜4分も岩道を行くと、正面に人工的に造られたコンクリートの 石段 が目に付く。
この急な階段を登ると、やっと山頂に着く。
右手には、立派な社殿が目に付く。
戦前までは、ここに社務所があったというが、昭和27年焼失し、昭和32年現在のコンクリート造りの社殿が再建されたという。
麓の竈門神社境内には、上宮再建記念の石碑が立てられているのを思い出す。
正面には、さらに石段 がある。

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正面石段を登ると、中心部には大きな岩がドッシリと座っている。
この岩は、礼拝石と呼ばれ山伏達が礼拝を行ったものだという。
山頂からの展望は素晴らしい。
左手北西の方には博多湾 が、右手南の方には幾重にも重なる山々の稜線が美しい。
南西の方には大根地山も展望できる。
宝満山は、その昔地域の名を取り御笠山と呼ばれていたが、その後古代から近世にかけては竈門山と呼ばれ、最も広く使われてきたと言われている。
宝満山は、古くから神が祀られ名神大社として高い地位にあり、嘉承元年(1196)には、正一位に授けられ、一時は九州の中心的な神社として国家的な祈祷も行われていたとされている。
奈良時代には天台宗と結びつき、多くの僧兵も抱えるほど栄えるが、戦国時代には否応なく戦乱の渦中に巻き込まれ、次第に衰退していく。
しかし江戸時代にもなると世も安定し、山伏達によって再び修験の山として宝満山は甦るが、明治の神仏分離令は、宝満山も例外なく廃物涅釈の嵐に遭い、徹底的に破壊され悲惨な運命を辿っている。

宝満山は、当時の繁栄の面影を目にすることはできないが、麓にある静かなたたずまいをみせる竈門神社だけが、昔日の歴史を静かにとどめ、語り継いでいるようにも思える。
さて、昼食を楽しみゆっくり体を休めたら往路を戻る。
体力に自信があれば、礼拝石のすぐ右手南側から鎖を手に、急な岩場を下り鞍部に降り、さらに直進して仏頂山を経由し素晴らしい尾根道を抜けドームがある三郡山へ足を伸ばしてもいい。
さらに鞍部へ戻り、稚児落としと呼ばれる山頂直下の巨大な岩壁の横を通り、羅漢巡りを経由し、さらに中宮を経由し往路を戻ってもいい。

吉田屋敷跡
宝満山の社僧吉田氏の居住の跡である。宝満山に修験霊場として盛んなときは370坊あったと伝えられている。 この付近より座主跡まで、点々として坊舎や屋敷跡があり石橋とともに昔を忍ばせてくれる。

芭蕉の句碑
世の人の見つけぬ花や軒の栗 鳥居の笠木にきざみこんである。
(浄土院跡の前方にある)

中宮跡
行者堂跡ともいい護摩堂、鐘楼跡がある。往時は頂上の巨岩をご神体として崇め、この中宮跡、座主跡一帯が修行僧の修行道場であった。

益影の井
神功皇后が宇美にて応神天皇ご出産の時使われたといわれる瑞泉である。

普池の窟
玉依姫命の石像と石仏約十体が安置してあり、窟内の広さ約十五畳 岩見重太郎や、夢想権之助はこの窟で武術の極意を授かった伝説がある。

羅漢巡り
中宮跡より、左(西)に廻ればこのコース、金剛兵衛剣窟、式部稲荷上宮、伝教大師が遣唐船の安全を祈られた伝教大使窟がある。

有智山城跡
小弐氏の居城で九重原の東北部の最高地点に築かれ、石垣や土塁・空濠等がのこっている。

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