九州の歴史をきざむ・四王寺山 [ 四王寺山:410m ]
大原山〜岩屋山(70分)
その木が正に大原山のシンボル的な木で、15番札所を守るように枝を広げている。
札所は十一面観音菩薩とある。
山頂は平坦でゆっくり時を楽しむことができる。
しかし、展望は期待できない。
体を休めたら、さらに草道を直進して行く。
ここからは、もう胸を突くような急坂はない。
左手ヒノキ林に差し掛かるころ、
道は草に隠れ
わずかな手がかりを探りながら歩を進めていく。
この辺りも人の手で土を重ねあげた土塁なのか、平坦な稜線を行く。
山頂から1分も行くと、右手へカーブして下りすぐ平になる。
さらに左手へカーブしながら、ゆるやかに下っていく。
少し行くと、
正面に峰
が樹幹越しに見えてくる。
この峰を登るのか、一瞬不安がよぎる。
ほぼ平らな道を少し行くと、その峰を目前にして登るどころか
急坂を蛇行
して下る。
急坂の途中、左手に白い立て札が立てられ、14番札所を案内している。
立て札に従い、左手へ数メートル行くと林の中に隠れるように
14番札所
がある。
ここから東側に展望が開ける。
急坂はすぐ傾斜をゆるめ、左手へカーブすると極端に狭い土塁をいく。
土塁の道は、もちろん季節にもよるが、草に覆われ路面はまったく見えない。
しかし、道に迷うような心配はない。
左手に迫るヒノキ林を過ぎると、道は徐々にはっきりしてくる。
平坦な道はゆるやかに登りだし、また平坦になる。
右手から、張り出す枝をくぐって行くとまたゆるやかに登りだす。
登りきると、左手に
ヒノキ林越しに展望
が得られ、宝満山西斜面に等間隔で立つ赤と白に塗り分けられた鉄塔が見て取れる。
さらに平坦な草道を少し行くと、ゆるやかに登り始め
踏み跡は二手に分かれ
並行して伸びる。
登りきるとすぐ一本の道になる。
さらに左手へカーブし平坦な道を行くと
Y字形に分岐
し、左手へカーブし伸びている。
ここを右手の平坦な道をとり、直進していく。
道はゆるやかに登りだし、右手に目印の岩を見て登っていく。
分岐から少し行くと、右手に13番札所があり、如意輪観世音菩薩と書かれている。
さらに数メートル行くと、左手へ分岐して登った道と出会い直進していく。
道は、数メートル登るとゆるやかに下っていく。
左手は自然林に覆われ、数本の桜の木も目に付く。
右手はヒノキ林が広がってくる。
道はすぐ二手に分岐し、左手に道をとる。
右手へ下る道は、「村上礎石」へ通じ、右手へカーブして遠ざかりスギ林の中へ消えていく。
左手の道を少し行くと、
右手に道標
が立てられ「村上礎石」と書かれている。
道は右手へ分岐し、右手へ道標の横を通って村上礎石へ向かう。
少し行くと道は
左右に分岐
し、右手下道を10メートルも登ると左手に目印の岩を見る。
すぐ右手大きな岩のくびれた場所に12番札所がある。
ここは千手観音菩薩とある。
数メートルも登ると、左手へ
分岐した上道
と出会い、右手へ5〜6メートルも行くとまた右手岩の下に11番札所があり、聖観音菩薩とある。
さらに直進して行く。
少し行くと、道はまた
右手へ分岐
し、右手へ少し登ると展望所となる。
展望所は、テーブルの足部分だけが残され、ボルトがむき出し座りづらい。
展望は東の方から北側にかけて得られる。
展望を楽しみ一息ついたら、分岐へ戻り右折していく。
すぐ足元に、吸殻入れを見ると右手に積み重なる岩の間に10番札所を見る。
ここは千手観音菩薩と書かれている。
道はここからゆるやかに下り、左手へカーブしていく。
左手にはトラロープ
が張られている。
少しばかり平らな道を行くと、またゆるやかに下り始める。
少し行くと、道は
二手に分岐
するがどちらを行ってもいい。
右手へ4〜5メートル登ると、9番札所があり罵倒観音菩薩とある。
馬頭観音菩薩は、恐ろしい顔をした観音様で、諸悪を食いつくし、日輪となって闇を照らす観音様といわれるが、今では馬や家畜の守り神として祀られている。
この辺りは札所が多く、登山を忘れ観音菩薩巡礼に他ならない。
少し下ると左手の道と出会い、右手へ数メートル行くと、
正面に「危険箇所に付き 立入禁止」と案内
されている。
ここで立ち入り禁止されても困るが、右手を通り抜け左手へカーブしゆるやかに登っていく。
道はまた二手に分岐し左手へカーブし土塁を登っていく。
すぐ正面に、「あぶないからはいってはいけません」と案内されている。
ここで引き返すか、土塁斜面を右手下道へ降りるか迷ってしまい、活字にするのは気が引けるが、人の気配がないことにそのまま通り抜けて行くと、工事中なのか
ビニールのシート
が敷かれている。
すぐ左手に展望が得られ、中ほどまで進むと眼下に青く波打つ独特の形をした「九州国立博物館」が目に入る。
九州国立博物館は、東京・京都・奈良に次ぐ4番目に設立された国立の博物館で、「日本文化の形成をアジア史的観点から捉える」というコンセプトで、旧石器時代から近世末期(開国)までアジア諸地域との「交流」によって築かれた視点で展示され、平成17年10月開館し幾多のイベントが開催されている。
立入禁止の案内板を気にしながら、早々右手へカーブ土塁を下ると、右手に8番札所を見る。
ここは聖観音菩薩とある。
観音菩薩は、聖観音菩薩が元来の形だそうであるが、さまざまな形の観音様が生まれ、それと区別するために「聖」の文字が付けられたという。
すぐ左手に
擬木のベンチ
が用意され右手を下っていく。
小粒の砂で滑りやすい道を30メートルほど下り、左手へカーブしゆるやかに登っていく。
その正面に道標が立てられ、左手へ「県民の森」、さらに左手へ下る道は「水瓶山:0・6km」と案内され
水瓶山への道
が下っている。
正面道標から数メートル登ると、林の中に7番札所があり「如意輪観世音菩薩」を見る。
元の道へ戻り、左手へカーブし10メートルも登っていくと、
またベンチがある
。
右手へ
岩の隙間を登り
、崩落したような斜面をひと登りし高台に立つと、素晴らしい展望が得られる。
展望所には、方位盤やテーブルが置かれ、一時腰を降ろし展望を楽しみながら足を休めればいい。
体を休めたら、
斜面を下り右手へ下っていく
。
下りきると、辺りには自然を楽しむ人々がのんびりと時を楽しんでおられる。
ゆるやかに左手へすぐ右手へカーブすると、右手に「大野城跡と四王寺山」と題した説明板が立てられ、右手には「焼米ヶ原」と案内されている。
大野城跡と四王寺山
四王寺山の名で親しまれるこの山は、昔、大野山とも呼ばれ、万葉集にも歌われています。665年には、この山頂全体を城とする大野城が築かれ、大宰府を守る役目を果たしました。延々続く尾根はその時の土の城壁であり、所々に石垣や倉庫跡の礎石も残っています。跡に四王寺という寺が立てられました。
福岡県'90
さらに「特別史跡 大野城跡 尾花地区」と題して、倉庫群の説明板も立てられている。
特別史跡 大野城跡 尾花地区
ここには10棟の建物の跡が残っている。これらは礎石が各建物の範囲内に碁盤目状に配置されており、床を人の背丈ほどに高くし、それを多数の柱で支える建物であった。このようなもので有名なのは奈良・東大寺の正倉院がある。大野城でも倉庫として武器や食料などの備蓄のために建設されたものであろう。
10棟の建物は、ほぼ南北方向に5棟が一列に並び他の5棟もそれぞれ計画的に配置されている。建物の大きさは梁行6・3m桁行10・5mで統一されている。
すぐ左手へカーブすると、右手にも案内板が立てられ、大野城の土塁について説明され、その横には、
土塁の断面
が造られている。
すぐ先には
トイレ
が設置もされている。
少し行くと車止めがあり、アスファルトされた空地を抜け、右手へさらに車道を横切ると歩道入口がある。
歩道入口には、案内板が立てられ「この先九州自然歩道は、大雨による崩壊のため、当分の間通行できません」と案内されている。
しかし勇気を持って階段を登っていく。
少し登ると、道は二手に分かれるがどちらを行ってもいい。
道はまた二手に分岐し、右手を20メートルほど直進して行くと、
右手高台に東屋
がある。
東屋で、腰を休めてもいいが満足する展望は得られない。
しかし、長丁場の歩行に腰を降ろせば楽になる。
さて小休止したら
元の道へ下り右折
していく。
少し行くと、正面左手に建物跡の礎石がある。
ここが、増長天礎石群である。
特別史跡 大野城跡 増長天地区
当地域は城の南東部で、大宰府口城門に近い内部土塁のすぐ内側である。4棟の高床建物(倉庫)跡が一列に並んで残っている。傾斜地を利用しているため石垣を作り、上段と下段に区切り各段に2棟ずつ配置している。下段建物の西側に鏡ヶ池と呼ばれる小窪地がありどんな渇水期でも水が絶えないという。大野城の井戸跡ではないかと考えられる。
増長天という地名は、奈良時代に城の西端部の鼓峯(410m)を中心に作られた四王院に由来するものであろう。
建物の広さは梁行6・3m桁行10・5mである。
右手に案内板が立てられ「ここは九州自然歩道です マナーを守って利用しましょう」と書かれている。
右手には大径の桜も幹を立て、花時は素晴らしい。
礎石跡は、説明板の通り左手に4箇所並ぶ。
最初の礎石を過ぎるころ、右手に道標が立てられ、右手へ「子供の国」と案内されている。
右手へ木段を蛇行して60数段下ると右手に31番の札所がある。
道は、ここから二手に分岐し下っている。
増長天礎石群に戻り、右手へ枝をくぐり平らな道を行くと、3棟目の礎石群を過ぎるころ、右手に道標が立てられ「鏡ヶ池」と書かれている。
先に目を移すと、どんな渇水期でも絶えないという
小さな池
がある。
足元には、4本の手を持つ石仏が静かに安置されている。
さらに左手へ3棟と4棟の間を抜けて行くと
32番札所
がある。
元に戻り右手に池を見て、ゆるやかに下っていく。
少し下ると道は二手に分かれ、正面に九州自然歩道の案内板が立てられ、九州自然歩道は右手へカーブし伸びており、九州自然歩道とここで別れる。
分岐を左手にとり、右手へ数メートル下ると、
T字形の分岐
になり、すぐ正面石柱の足元に文字板が置かれ、左手へ「馬責め 岩屋城」と案内されている。
ここ分岐には、4棟目礎石の右端を直進すれば、少しだけ近道になる。
ここを左手へ10メートルも下り、右手へカーブしヒノキ林の中をゆるやかに下っていく。
さらに、20数メートル行くと左手にカーブする。
快適な道は、ヒノキ林を左手に、
自然林を右手に分けるようにその間を貫き伸びている
。
まっすぐ伸びる道を、20メートルも行くと右手へカーブし、その角から左手に分岐しているが踏み跡は薄い。
右手へしっかりした踏み跡を選ぶ。
ヒノキ林は次第に消え、自然林に覆われた道は適度の傾斜で下り、足の疲れは一歩一歩踏み出すごとに消え失せる。
自然林の道は、右手へさらに左手へカーブしていく。
分岐から1〜2分も行くと正面が開けてくる。
すぐ、右手へ傾いた松の木をくぐり、右手へカーブしていく。
右手には平坦な空地が広がり大径の桜の木が数本植えられている。
ほぼ平らな道はゆるやかに登り始め、すぐ
Y字状に分岐
する。
右手へ5〜6メートル登った所に道標が立てられ行く手を「大石垣」と案内している。
分岐のすぐ左手には、
「馬責」の説明板
が立てられ、その右手には、行く手を「岩屋城跡」と案内している。
この辺一帯は「馬責」と呼ばれています。
馬責とは「馬を訓練すること」の意で、ここも岩屋城主高橋紹運の馬場があった所といういい伝えが残っています。高橋紹運とは戦国時代の武将で、天生14年(1586)島津氏の猛攻の前に七百数十名の家来たちと共に岩屋城で討死しています。ところで馬責を囲む土手は、大野城(665年に築造)の土塁跡です。
道標を見てゆるやかに下っていく。
快適な道としては少し傾斜がある。
しかし、足は気持ちを引っぱり距離は稼げる。
右手に桜の木を見て左手へカーブしていく。
辺りはまたヒノキ林に変わり、傾斜の大きい道を右手へカーブし下っていくと、コケに染まった赤土の道となり滑りやすくなる。
さらにヒノキに触れ、右手へ数メートル下ると傾斜はゆるみ、
程よい傾斜
に足は軽くなる。
しかし、快適な道は長くは続かず、道幅を30センチメートルほど掘り込んだ道を下っていく。
少し行くと右手樹間に車道が見えてくる。
さらにミゾ道を右手へカーブすると、すぐ車道が見え車止めを抜け車道に出る。
車道出口には道標が立てられ、ここを登る登山者向けに「馬攻め 鏡ヶ池」と案内している。
文字は、攻撃の「攻め」が使われている。
車道に出ると、右手へS字状に20メートルほど下ると、左手に歩道入口があり「岩屋城近道」と案内されている。
狭い道を下ると、ヒノキ林になるが、すぐ豊富な自然林に変わり、狭い道は歩きやすくなる。
2分も下ると下りきり、右手へ分岐し石段が下っている。
岩屋城跡の帰路、石段を下っていく。
左手には
道標
が立てられ、直進して「大野城 岩屋城跡への近道」と書かれている。
ここを直進し、擬木で土留めした階段を登っていく。