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大分県の山

リアスの海岸が見渡せる・彦岳 [639.3m]

車道出会い〜ベンチ(10分) [ この区間の地図 ]

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車道に立ち、右手歌碑を見ると「詠彦嶽」と題した詩が刻まれている。

彦岳讃碑  中島子玉
彦岳のそえる処に豪遊を試みる 道をはさんで松杉日中でもかすかなり 谷くらくして岩かげより山鬼がかたりそう 林深く樹上嶺より猿がいるのではと愁う 遠くの帆舟はたちまちにして雲の中に入りてつきる はるかなる島はあたかも天の際に浮かぶが如し 草ぶきの家に帰りてまだも心はうっとりとして夢の中瀑は頭にかかる。


1801年、子玉は佐伯藩士・中島幹右衛門の長男として生まれ、佐伯藩は学問の盛んなところで、子玉も藩校・四教堂に学び、幼少の頃から聡明で、子玉が16歳の時に藩より学費が支給されることとなり、広瀬淡窓が開いた咸宜園に留学を命じられてる。
入塾するや子玉の学才は他を圧倒し、一年を過ぎる頃には塾頭として淡窓に代わって講義を行うようになる。
子玉は、藩の許しを得て京へ留学し、旧知の頼山陽らとも交流している。その後、また藩に戻り、儒官として後進の指導にあたる傍ら、日田への藩使に随行するなど外交面でも活躍していたが、自宅で負傷したのがもとで破傷風となり、34歳で突然死去している。
この5月、佐伯市で咸宜園の最盛期の姿と考えられる 絵図 が見つかったと西日本新聞で報じられている。
この作は小栗布岳とされ、淡窓が教えた江戸後期のあいまいな全容が解明される大きな手がかりと期待されている。
ただし、子玉と布岳は同じ苗字ではあるが別人のようである。
さて、左手に目を向けるとベンチが、展望もよく佐伯湾のリアス式海岸が、その先には視界一杯に広がる広大な豊後水道が一望できる。

山頂への道は、右手10m、車道左手に立派な登山道入口があり、右手に「彦岳ウォチング」「登山者へのお願い」と題した説明板が立てられ、これを一読し、左手へコンクリートの石段を登って行く。
石段は40段足らず数え、右手へ木段を登って行く。
木段は右手へ、さらに左手へカーブし登って行く。
木段はさらに続き、110段も数えるころ左手に 800mの案内板 を見る。
さらに15〜6段も登ると、左手にまた例の800m案内板が立てられている。
一息つき、さらに木段を登って行く。
木段はまだまだ続く。
案内板から100段足らず登ると左手の手すりは切れるが、木段はさらに続く。
そして30段も登ると木段はなくなり、ゆるやかな傾斜を登って行く。
右手に1本の桜を見ると、左手には3本の桜を見る。

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桜を見ると、また木段になる。
そして少し下り、ゆるやかな傾斜を登って行く。
左手の小さな桜の幹に巻かれた赤いテープを見ると、正面に枝を広げた桜からすぐ右手へカーブして行く。
すぐ左手に「彦嶽山頂まで700m」の 案内板 を見る。
そして、石屑の多い道を左手へさらに右手へカーブしていくと、ミゾ状の道に変わる。
左右に目を向けると、ヒノキが植林されている。
傾斜は少し増してくるが、10数メートルも行くと傾斜はゆるんでくれる。

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